阪神大震災 その2

日記

翌日、唐櫃台に住む同僚を迎えに行き、長田へと向かった。ニュースでは本社ビルの周囲が最も被害の大きな場所らしい。

私は本社の近くにあった得意先のために、取り敢えず水と弁当を作り、先ず、住所を知っている同僚宅を探したが、家自体が燃えて無くなっており、避難場所らしきところを訪ねたが、探すことができなかった。

そして本社へ向かったが、本社の一角だけ燃え残り、三方は焼け野原。本社ビル〜お崩壊は昨日よりも進んでいた。

得意先も燃えていない場所にあったので訪ねてみた。家族の一食か二食分にしかならない量の弁当だったが、社長はとても喜んでくれた。ちなみに隣の家が倒壊して、この得意先の階段を押し潰し、中から二階へは上がれるが、外からは四階迄は上がれない状態。

その後も同僚の安否確認をしようと、行ける限り訪ねたが、誰とも出会うことが出来なかった。何分道路は消防車やレスキューで埋め尽くされており、彼女と相談して、その日は帰る事にした。

その晩に上司から連絡があり、翌日は昼頃に倉庫で集合との事。社長の安否は未だ分からない。

翌日集まったのは男性が十人程度。同僚のご両親が亡くなった話、姪御さんが亡くなった話、まだ大多数と連絡が取れないと言う。

当時の専務は来られていて、本社が使えないから、この倉庫、西濃運輸物流センターの空いている二階の、窓のない小部屋を緊急で借りるとの事。

私は本社で指揮をとり、必要なものを倉庫に持ってきてくれとの事。事務所でオフコンに端末やサーバーを見ていたが、モニターは割れていなかったが、背面が割れたり、線がちぎれたりしていた。

後は本社ビルにも置いてあった商品群。使える机や椅子など、西濃にも協力を取り付け、翌日から搬入作業を始めた。

こういう異常時には、神経が麻痺していて、余震で崩落が続いたが、怖いというよりも、運び出さなければ商売が出来ないという思いが強かった。

続く

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