阪神大震災 その3

日記

社長の安否がはっきりしたのは、それから一週間後だった。 しかし出社できるような状況ではなく、専務が陣頭指揮をとって 仕事進めていった。

このことが社長と専務の確執を招いた。 出社できないのは社員全員が同じで、 一か月たっても顔を一、二度覗かしただけで、 経営者としてなってないというのが専務の思いだった。

一週間ほど経った頃、 弁当持って行った得意先の社長がやってきて、 号泣しながら私に抱きつき「この恩は一生忘れない」と言ってくれた。

実際私が退職するまで、私を大事にしてくれた。 トラブルがあっても、私が行くと 怒りを納めてくれて、売上が必要な時も、私が行けば仕方がないなと笑いながら買ってくれた。

話は変わるが、離婚したあと、生活は 大いに荒れて、 それまでは一滴も飲めなかった酒を、 毎日スナックへ出かけ 飲み続けた。

私は B 型肝炎で既に慢性肝炎だったので、 体をつぶして死んでしまいたいと思っていたのだ。 毎月i一軒のスナックで30万円ほど支払っていた。半分は現金、半分はツケだ。

そんな中でも阪神大震災、 当然のことながら、スナックのママもお金に困っていると思い、ツケのぶん15万円を届けた。 後にその店のママから話を聞くとツケを支払ったのは私だけで、店も潰れてしまい、帳簿も無くなってしまったのでしょうがないとのこと。

不思議なことに それまでγ GTP が100から300までの間をいったりきたりしていたのに、 一年間毎日酒を飲み続けたのにも関わらず 正常値に戻り、 その後は一度も上がったことがない。

仕事の方は搬入も大方終わり、 サーバーや オフコンの端末を、道具がないので適当に繋いで仕事を再開した。繁忙期なので商品を遅らせる訳には行かない。

出てこれる人間は全員で出荷作業にあたった。事務は二人しか出社出来ない状態長く続いたので、電話や伝票整理や雑用は私。そして出荷指示やクレーム処理、代理店との交渉など、大忙しの日々だった。

それ以上に、足が無い事務員の一人を5時間かけて迎えに行き、また5時間かけて送って行く日々。私はショートスリーパーなのでもったと思う。

当時私の上司だったその女性の事務員、 往復で10時間もあればいろんな話をする。 結局それがきっかけのようなもので、 その年の12月3日に再婚した。

やがて私の役職の方が上がり 、私の部下になったのではあるが、 当初は家内の方が高給取りだった。

それはともかくとして、多感な時期である高校1年の娘と、高校3年生の息子の父親になった。

余談ではあるがそれから数年後、実子の娘、現在は千葉に住んでいるが、母親と折り合いが悪く、結局家内と 養子縁組をして家族の一員となった。

よくしたもので、 この血縁関係のない 娘や息子、そしてその子供達、私にとっては孫にあたるのだが、 私の生きる糧となった。

震災で亡くなった方々、 そして震災で 人生を 再発見することができた私。 死にたいと思っていた私が生き延びたのである。

だからこそ余計に、亡くなった方がの無念さを思わずにはいられない。 私は長生きして家族を幸せにしなくてはならない 。それが使命だと思うようになった。

コメント